「イスラム教では、アンフェアなことを見て黙っているのは、被害者であっても罪とされる。」
同僚が言った。午後6時半。同僚は、午前4時頃から続くラマザン月の断食で、疲れ顔である。
「まぁ、君はイスラム教徒ではないから、この教えに従う必要も筋合いもないけどね。」
あれから3年。人と話していて宗教について考えることがあったときに、あのときのことをふと思い出した。
あの瞬間、私はイスラム教の懐の深さみたいなものを感じた気がする。
もちろんイスラム教にはザカート(困窮者を助けるための義務的な喜捨を)という考え方があって、弱者に手を差しのべる姿勢があることは、知っていた。
トルコで暮らすなかで、外国から来た若く(当時)トルコ語もしゃべれない女性として、頼りない私に、たくさんの人が手をさしのべてくれて、その温かさも実感していた。
真剣に道案内をしてくれたおじさん、チャイを入れて優しく顎の下をなでてくれた(犬になった気分だった)おばちゃん、「一人だなんて思わないでね」と言ってくれた同年代の女の子。
ただ「あぁこれが宗教か」と思ったのは、あのときだった気がするのだ。
逆に、彼の言葉がコーランのどこに書いてあって、なんと呼ばれる考え方なのかも知らないのだけれど。
あのとき、私は本当に悩んでいて。這い上がっても這い上がっても、蹴り落とされる穴のなかで、さらにナイフを刺されているような気分だった。
今書き出すと、そんなまたまたと思ってしまうけれど、当時の感覚を的確に表していると思う。(「そんなまたまた」と思える状況に今いるのが、心から嬉しいぐらい)
そんな状況だったからこそ、彼の言葉は「救い」に思えた。
こんな私を守るための戒律があるのだ、と。
そのときの私はたしかに、「戒律を守るために声をあげなさい、それは正しいことなのだから」というイスラム教のスタンスに救われたのだ。
ラマザンの断食で、少しスピリチュアルな気分になっていた同僚に言われたのも大きいかもしれない。
苦しい状況にある人をみんなで救うための仕組みとしての宗教。
とても合理的で、守ってくれる安心感のあるものだと感じた。
だからといって、そこから深い信仰の道へ……というようなドラマチックな展開はないのだけれど。
多くの日本人がするように、いろいろな宗教の断片を興味深くかじる生活のなかで、たまにあのときの救いの感覚を思い出す。
土地と人と音楽あたり
日々心に刺さった、いろいろについて。
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